救出された御面像 寄進された御面像
「御尊顔の由来と回廊内壁の仏画について」(大仏寺)より。白線は筆者によるものです。
左の文章(画像)は、現在の高岡大仏(三代目)が鎮座する台座内、その回廊の奥に入口を持つ堂内の御面像(御尊顔)について記した、「御尊顔の由来と回廊内壁の仏画について」と題する文章の冒頭部分です。(やはり堂内に掲げられています)
二代目の木造大仏が焼失した際に
「木造の哀しさで仏頭だけが焼け残ったのでございます」
と書かれています。
実はこの記述内容は現状では事実とは異なります。しかし一方で、御面像が救出されたとする明治末の記録が大仏寺に残されているという事実があります。ただし当然その記述にある御面像は現在のものとは異なります。
何か裏があるように思えてくるのですが……。
二代目大仏(高岡大仏堂)の焼亡と救出された御面像
大仏寺所蔵資料より(合成済み)
資料[0515-131]に以下の記述があります。
本寺極楽寺モ本堂庫裡並ニ大仏等一切灰燼ニ帰ス
住職谷部良禅氏手ノ下シ方モ足ノ踏ム処モ知ズ
大仏だけでなく、大仏(大仏堂)の管理者である坂下町極楽寺の本堂も庫裡も全焼し、呆然と立ちつくす一人の僧侶の姿が目に浮かんできます。それは明治33(1900)年6月の高岡大火によるものでした。
ところで、高岡大仏堂の「堂宇仏像庫裡」はすべて焼き尽くされてしまったはずなのに、それを否定する木造の御面像があります。
平成19年度の修理工事実施前の堂内、そこに安置されている二代目大仏焼失の際に救出されたと伝わる御面像
現在の大仏の真下、台座内の回廊奥の堂内に、総高1.8メートルほどの木造の御面像が安置されています(07.07.13 計測by伊藤 博、左図)。
それは、明治33年の高岡大火の際に救い出されものとして今日まで伝えられてきました。その根拠、というより背景になるものが以下3点の史料と考えます。
御面像について記された史料
史料《118》『寄附金募集願』(M43.05.20)
明治三十三年六月二十七日当地大火之際仏体ノ御面像及什具ノ一部取出ノミニシテ余ハ悉皆烏有ニ帰シタル……
現存ノ仮堂宇ニ御面像ノミヲ安置シ
史料《158》『寄附金募集許可申請』(M44.01)
不幸明治三十三年六月二十七日当地大火災ノ際再ヒ仏体ノ御面像汁具ノ一部取出シタル而己ニシテ余ハ悉皆烏有ニ帰シタル……
現存ノ仮堂宇ニ御面像ノミヲ安置シ
史料《437》『大仏像改造模様替許可願』(T05.02.04)
明治三十三年六月二十七日当地大火災ノ際僅ニ仏体ノ一部取出シタルノミニテ其余ノ諸堂宇悉皆烏有ニ帰セシメタリ
史料《118》と史料《158》には「仏体ノ御面像及什具ノ一部取出」とあります。もう一つの史料《437》では「仏体ノ一部取出シタルノミ」と表現し、「御面像及什具ノ一部」は見られませんが、御面像すなわち大仏の頭部が取り出された(救出された)という点では同様の内容と言えます。
また、史料《118》と史料《158》には、「現存ノ仮堂宇ニ御面像ノミヲ安置」しているとあります。「現存ノ」とあることから、明治43年及び44年の段階では、焼け跡に仮のお堂が建てられていたこと、その堂内に、救出された二代目大仏の御面像が収容されていたことが示されています。
寄進された御面像
ところが、現在の堂内にある御面像は、前記の「取出シタル」御面像と異なることが、すでに冨田保夫氏の調査によって判明しています。
同氏がその根拠としているのは次の2点からです。
一つは昭和28年12月発行の「市民と市政(12月号)」(『容膝書屋栄活』所収 編集兼発行 広瀬喜太郎 昭和40年[0515-42])で、「体内広く大きく、中には火災後とりあえず津島氏の寄進にかかわる木像大仏があり、これを囲繞して十三仏、千体仏がずらりと並んでいます。」(P35)という記述でした。
もう一つは、冨田氏による御面像の内部写真撮影による記録でした。現在の御面像の首、その後部の隙間から銀塩カメラを挿入して撮影を行ったそうです(まだデジタルカメラが一般化していない頃のことです)。
画像の矢印Bが示す部分は御面像の左の耳朶(たぶ)です。そして矢印Aが示す隙間の奥が御面像の内部ですが、壁が近いために直接覗き見ることができません。富田氏はファインダーを覗かずにここからカメラを挿入しシャッターを切ったのでした。実際のところなかなかやっかいな作業だったと思われます。本人もそうおっしゃっていました。
その結果、現在の御面像は、津島彦逸氏が彫刻師本保某に造らせ、二代目大仏の焼失から10ヶ月ほど経った明治34年4月に完成したもので、それを極楽寺へ寄進したのだと冨田氏は導き出しています《060905-01》。
新たに御面像内部の墨書撮影
堂内に安置された木造の御面像。頭部から内部を見ることができる。
平成19年度(2007)に高岡大仏修理工事が実施され、回廊裏手の堂内もその対象となり内部に足場が組まれることになりました。
大仏寺の許可を得て御面像の計測を行った際、頭部(最頂部)が大きく開いていることに気づいた私たちは、改めて工事関係者の了承も得て、足場上から御面像の内部を撮影することにしました。
こうして撮影されたのが次の画像です。
これは真上から撮影した画像です。
・一番左の矢印のところには、
「明治三十四年四月
彫刻師 本保」
・またその右手のところには、
「施主人 中祖十二世
津嶋彦逸
行年五十歳」
「世話人
野口仁右衛門」
と読み取れました。
矢印の先が墨書のある位置です。
救出された御面像、寄進された御面像……その裏には?
さて、ここで念のため付け加えなければならないことがあります。これまでの過程で明らかにされた、現在の御面像が津島氏によって寄進されたという事実が、ただちに、前記史料が伝える、「取り出された事実」や「仮堂宇に安置された事実」を否定するものではないということです。
考えにくいことですが、2つの事実がともに成立する可能性もあるということです。救出された御面像と寄進された御面像の2体が存在したかもしれません。
ですが大仏寺に現存する明治期の史料の中に、御面像の津島氏寄進について触れた文言は見つかりません。これはずいぶん不自然な気がします。
いずれにしても、大仏の焼亡から10年足らず(明治の末)の時点で、「仮堂宇」に安置された目の前の像の由緒に、救出それとも寄進という大きな食い違いが起こるとは考えにくいのです。
もしかすると、寄進された御面像を、二代目大仏から救い出されたものと主張しなければならない特別な理由があったのかもしれない、最近はそのようにも考えています。
前記史料《118》及び史料《158》がともに、寄付金の募集許可申請という県庁への提出書類であることにも注意する必要がありそうです。
大きすぎる御面像!
もう一つだめ押しになりますが、堂内の御面像が二代目大仏のものでないことを示す有力な情報を提示しておきましょう。要するにこの御面像は丈六の大仏のものとしては大きすぎるのです。(二代目高岡大仏は丈六の木造阿弥陀如来坐像でした)
上図Aが通常の丈六坐像の大きさです。図Bが御面像、顎から上で約1m50cmほどあります。
両者を並べてみたのが図Cです。とてもつり合わない大きさです。