大仏屋敷と下関村請地
延享3年(1746)2月「大仏屋敷請状之事」(飯田家文書 飯田千鶴子氏所蔵)初代大仏についての貴重な地方文書があります。『高岡史料』(下巻)所収の逸見文九郎編述「晩香圃雑記」(明治3年筆)に、「下関村百姓地ニ而御座候請地右堂建申度奉存候」[0515-09.1168]とありますが、その「請地」について、坂下町及び富山極楽寺(坂下町)と下関村のやり取りを記したものです。
それは高岡市東下関にお住まいの飯田千鶴子氏が所蔵する飯田家文書に含まれていました。
今回特別の許可をいただき原本を撮影させていただきました。
なお所蔵文書の目録が刊行されています。富山県公文書館編「富山県公文書館文書目録 歴史文書 二十」[0515-19]です。
大仏屋敷と大仏堂
飯田家文書に収められた延享3年(1746)の史料2点(史料A・史料B)を掲載します。
○ 史料A
延享3年(1746)1月27日
下シ申大仏屋敷之事
歩数八十歩
一 三十五升 新京升
右下シ申所如件
延享三年正月廿七日 下関村 又右衛門(印)
坂下町 組合頭 中条屋八右衛門殿 同 又助(印)
同 与合頭 和田屋仁左衛門殿 同 次郎右衛門(印)
○ 史料B
延享3年(1746)2月
大仏屋敷請状之事
一、八拾歩は 大仏屋敷也
此御年貢米三斗五升、新京升也
右貴村御田地之内私共町内へ請込大仏堂為相建申所相違無之候、
然上は右御年貢米毎年十月切に各指図之御蔵所へ急度斗り付為し可申候、
尤諸事 御公義様御法度之趣并被仰渡之趣共は町御支配之儀に御座候故私共より可申候、勿論是以後いか様之出入ケ間敷義出来仕候共私共町内へ引請相捌可申候
若又大仏堂何方へ引越候共石砂等引取御田地為明渡可申候為其請状如件
延享三年寅二月 坂下町極楽寺弟子
大仏願主 良歓(花押)
同組合頭 中条屋八右衛門(印)
同 和田屋仁左衛門(印)
下関村肝煎 又右ヱ門殿
同 組合頭 又 助殿
同 次郎右ヱ門殿
延享3年(1746)2月「大仏屋敷請状之事」(飯田家文書 飯田千鶴子氏所蔵)大仏堂の建立を目的に、下関村の百姓地を「請地」として借りうけるための交渉が行われました。「大仏屋敷」とは大仏堂の建設用地を指すのでしょう。
延享2年(1745)9月の許可願いから5カ月近くを経た延享3年(1746)1月27日、広さ80歩(80坪=約264平方メートル)の土地について、必要な年貢米は米3斗5升であることが下関村から坂下町に示されます(史料A)。
これに対応する形で、「大仏願主」である良歓と坂下町の二人の組合頭が、下関村の肝煎である又右衛門等に差し出した翌月(2月)付けの文書が『大仏屋敷請状之事』(史料B)だったと考えられます。
そこ(史料B)には、借りうける田地に大仏堂を間違いなく建てること、きちんと年貢米を納めることが約束され、さらに、もし大仏堂が引っ越すようなことがあれば、建物の基礎として敷き詰めた石や砂などを引き取り、再び田に戻して明け渡すという文言まで加えられていました。
以上、2点の飯田家文書によって次のことが明らかになりそうです。
- 逸見文九郎編述「晩香圃雑記」(『高岡史料』(下巻)所収)に記された「富山極楽寺弟子 良歓」[0515-09.1168]が実在すること。
- 良歓は「大仏願主」とされ、おそらく単なる仲介者以上の役目を担う、交渉の主体者だったと考えられること。
- 請地の広さ等を示しその目的を明確にしていること。
- そして大仏堂はこの時点、つまり延享3年(1746)2月まではまだ建てられていなかったということです。そうなると、たとえ大仏本体が前年の延享2年(1745)に完成していたとしても、仮の覆い屋等に保管されていたものと推定されることになります。(ただし、初代の大仏が木像であることを前提としています。)
なお、大仏の建立年については、こちらを参照下さい。