初代大仏の建立年 延享2年説と延享3年説
初代高岡大仏完成の建立年には、延享2年(1745)説と延享3年(1746)説があります。当初1年の違いは取るに足りないことだと思っていました。しかし史料の読み方について周囲に尋ねたことが契機になって意外な展開に進んでいったのです。
そこで、本当に取るに足りないことなのかどうか確認してみることにしました。
2説の代表選手
実は初代建立年の主流は圧倒的に延享2年説の方で、目にする書(情報)の大半が「延享2年」になっていると思います。その筆頭と言えるのが明治42年刊の『高岡史料』下巻です。
同書p1168「第六節 大仏」の表題は、ずばり「延享二年 紀元二四〇五 九月定塚町に始めて大仏を建立す」[0515-09.1168]と断定的です。
他に、昭和38年刊の『高岡市史』中巻でも「延享2年(1745)9月、坂下町を上りつめた所、定塚町に建立された大仏である。」[0515-11.936]と記され、比較的一般に流布している昭和58年刊の『高岡の文化財(図録)』では、「延享2年(1745)、坂下町の浄土宗極楽寺第十五世等誉上人が大仏建立を誓い、弟子の良観を勧進職として高さ三丈二尺、木造金色の仏像を建立したのが高岡大仏のはじまりである。」[0515-01.96]と具体的です。(注:なお「良観」は「良歓」が正しいようです)
一方、延享3年説の方ですが、可西泰三著の『銅炎』にその記載がありました。「明治後期に書かれたと見られる覚書を見ると……延享3年9月許可を得て木像金色にて三丈二尺の座像を建立した」[623-03.125]とあります。
残念ながら「明治後期に書かれたと見られる覚書」が何なのか記述がないためその内容を確認できずにいます。それと、「9月」は両説とも同じですから、もしかすると「延享3年」は誤植に過ぎないのかもしれません。
平成3年刊の「高岡市市制100年記念誌 たかおか—歴史との出会い—」はより詳細です。「坂下町の浄土宗寺院、安養山極楽寺は通称が富山極楽寺。そもそも、当寺の第十五世住持・等誉上人が延享2年(1745)に大仏の建立を発願した。弟子の良歓を勧進職として喜捨を募り、翌年には、金色木造で像高三丈二尺(約九・七メートル)の大仏が完成する。」[623-01.258]とし、発願年を延享2年、完成を翌延享3年としています。
大仏が先か、大仏堂が先か
ところで、初代の大仏は木像だったようです。そうであるならば、通常は露座ということはあり得ず、大仏を収めるための蔵などの覆い屋(「大仏堂」)があったはずです。
実は史料の解釈の仕方で、その大仏と大仏堂の建立順序が逆になってしまうことが分かりました。それによって、相違する大仏の建立年が出現した可能性があるのです。
つまり、大仏を先に完成させた上で大仏堂を作ったとすると、大仏の建立年は延享2年の公算が大きくなり、反対に大仏堂が先なら延享3年説が有利になるのです。
問題となった史料というのは、『高岡史料』下巻に収載された逸見文九郎編述「晩香圃雑記」(明治3年筆)の内容[0515-09.1168]でした。(逸見文九郎編述「晩香圃雑記」は現在行方不明のようですが、どなたかその所在をご存知ないでしょうか。)
私儀大仏建立仕申候ニ付堂建申屋敷之儀絵図書上申候下関村百姓地ニ而御座候請地右堂建申度奉存候ニ付奉願候御慈悲之上を以被為仰付被下候ハヽ難有悉奉存候以上
延享二年丑九月四日 富山極楽寺弟子 良歓
高岡町 御奉行所
但十日御聞及建立則当時極楽寺持分
ただし、逸見文九郎は「延享二年丑九月四日」付の文書を明治期に書き写したわけですから、これまでに少なくとも二度の筆写がなされたわけです。そういう不確実な要素を持つ史料を対象に、延享2年と延享3年の違いにこだわるのは無意味なことかもしれません。しかし他に頼れるものもないので、今はこの記述を事実と捉えて先に進めることにします。
※ 大仏堂……これは、別項で紹介する飯田家文書(延享3年(1746))で使用された用語です。「大仏屋敷と下関村請地」
「私儀大仏建立仕申候ニ付」の解釈
解釈が分かれるのは、冒頭の「私儀大仏建立仕申候ニ付」です。「私」すなわち、「富山極楽寺弟子」の良歓が、
A「大仏をすでに建立しているので」
あるいは、
B「これから大仏を建立するにあたって」
の両方に読み取れるのです。
(厳密に見るならAとB両方の解釈が成立する、という複数の見解を得ています)
さて、もし前者Aのように読み取れば、大仏建立後、次はそれを収める大仏堂を建てさせて欲しいという内容になります。そう解釈すれば、この願い書が延享2年9月付けであることから、初代大仏の延享3年建立説は除外されます。
しかし、もし後者Bだとするならば、すなわち、今後大仏を造立する予定なので、それを収める大仏堂を先に建てさせてもらいたいという話になり、この場合は、年内(延享2年中)に大仏堂と大仏を完成させない限り延享2年説は成り立ちません。しかし別項「大仏屋敷と下関村請地」で取り上げたように、大仏堂の完成は延享3年2月以降でなければなりません。そうなると、大仏の完成時期はさらに遠のいてしまいます。
現状では決定的な証拠もなく判断の下しようもないのですが、今の段階では次にように考えるのが妥当でしょう。
延享2年9月の時点で大仏はすでに出来上がっているか、または大仏堂の建立許可を願い出るに十分な、完成間近な状態に至っているとする見方です。大仏堂を建てる許可願いと同様、大仏そのものの建立許可も当然申請されたことでしょう。そうであれば、まず主目的である大仏を完成させた上で、さらにそれを収める覆い屋(大仏堂)を、というのが筋というものではないでしょうか。
いずれにしても私には、覆い屋のない状態で完成した木造の大仏は、本来の意味で「完成している」とは当時も見なされていなかったように思われます。大仏堂の完成がいつだったのかは分かりません。ただし延享2年でないことは確かでしょう。(ただし事前に完成していた仮の堂から正式な大仏堂へ引っ越しをしているといった想定は成り立ちますが。)