高岡大仏史関連年表

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高岡大仏史関連年表

以下は、個人的目的のために作成してきた年表です。引用も100%出典通りとは限りません。あくまで参考にとどめ必要に応じて原典にあたっていただきたいと思います。もし誤り等気づかれましたらぜひご指摘のほどお願いいたします。※ 内容を確認のうえ少しずつアップしていきたいと思います。

末尾の[ ]は出典先を示します。例えば[0515-120.87]は、文献「奈良の大仏 世界最大の鋳造仏」([0515-120])のp87に記述の文章等を根拠(典拠)にし、あるいはその文章からの引用であることを示します。

 
○ 757(天平宝字1年)奈良の大仏、大仏と大仏殿院が完成する[0515-120.87]
 
○ 13世紀初頭に起源を求める伝説
・「初代の大仏については、鎌倉大仏にすら先立つ13世紀初頭に起源を求める伝説がある。しかし文書をたどる限り、坂下町の浄土宗安養山極楽寺が勧進職となり、近隣に求めた借地に建立され、延享二年(一七四六)九月二日に開眼法要が営まれたものが初代とされる。」[0515-31.17]
 
・およそ780年前、摂津国多田(兵庫県)に住む源義勝が承久の乱をさけ、入道して越中に移り、二上山麓で護持してきた丈八寸の金銅仏を腹中に納めた一丈六尺の木造大仏を造営したのが高岡大仏の始まりと伝えられています。(H18.2付の高岡大仏パンフレット)
 
○ 1252(建長4年)鎌倉大仏
大仏の造立については、正史『吾妻鏡』に暦仁元年(1238)に木造の大仏の造像が開始され、その5年後に完成したという記事がある。同じ『吾妻鏡』には、建長4年(1252)年に銅造の大仏が造られたという記事もあるが、「木造大仏」と「銅造大仏」との関係を含め、造像の経緯は今ひとつはっきりしていない。当初木造の大仏が造立されたのが、何らかの事情で失われ、代わりに造られたのが今ある銅造の大仏だとするのが、素直な解釈であろうし、事実、それがほぼ定説となっている。(http://ja.wikipedia.org/wiki/鎌倉大仏)
 
○ 1628(寛永5年)
・高岡城廃城後の寛永5〜6年(1628-9)に、高岡町を通る北陸街道の東半分が付け替えられ
 坂下町から古城の大手前を経て、大野村に抜けることになった。
 大手前の濠や塁を隠すため定塚町の一部を下関村領に移転させた。
 両者を区別するため、元の所を古定塚町、新しくできた所を定塚新町といったが、
 次第に後者が定塚町といわれるようになった。(「高岡史料」)[0515-38.57]
 
○ 1733(享保18年)
・高岡大仏に関する資料は同年以前のものは見当たらない[0515-18.3]
 
○ 1734(享保19年)
・11/7、「年貢米納所方申渡書」
 高岡富山極楽寺(印)→下関村又右衛門など三人(一紙 1 三-74)[0515-19.10]
 
・11/7、「年貢米納所方申渡書」(画像:0515_TY01-009.jpg)
[0515-19.10]には「年貢米納所方申渡書 享保一九年一一月七日 高岡富山極楽寺(印)→下関村又右衛門など三人」
 
・下関村史料研究会編集発行の機関誌『下関村』第10号(昭和57年)
 「大仏屋敷の請状 良歓が下関村肝煎へ」に、
 「延享三年二月、さらに敷地を八十歩拡張した」(p5)
・[0515-19]富山県公文書館編「富山県公文書館文書目録 歴史文書 二十」(富山県公文書館 平成16)飯田家文書の目録所収。
 
○ 1745(延享2年)
・坂下町浄土宗極楽寺第十五世等誉上人、大仏建立を発願[623-11.573]
 
・9/2、坂下町 浄土宗安養山 極楽寺第十五世住職等誉上人の弟子良歓を勧進職として、下関村の領地を借り、そこに木造金箔張り3丈2尺(9.7メートル)の大阿弥陀如来坐像を建立し、開眼供養。(出:5.10.23.25.27)[0515-18.4]
 
・9/2、「延享2年(1746ママ)9月2日に開眼法要が営まれたものが初代とされる。」[0515-31.17]
 
・9/4 「第六節 大佛
 延享二年 紀元二四〇五 九月定塚町に始めて大佛を建立す。」[0515-09.1168]=高岡史料 下巻(M42)
 
・9/4「晩香團雑記」[0515-09.1168]=高岡史料 下巻(M42)
(原本の所蔵は? …国書総目録や図書館で所蔵確認できず)
([0515-09.引用書一覧3]に「晩香圃雑記 一冊」…團でなく圃とある、また、[0515-11.936]でも「晩香圃雑記」だった)
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「私儀大佛建立仕申候ニ付
堂建申屋敷之儀絵図書上申候
下関村百姓地ニ而御座候請地
右堂建申度奉存候ニ付……
 延享二年丑九月四日   富山極楽寺弟子 良歓
    高岡町 御奉行所
但十日御聞及建立則当時極楽寺持分」
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・逸見(へんみ)文九郎編述「晩香圃雑記」(明治3年か?)
[0515-09.引用書一覧3]に「晩香圃雑記 一冊」(團でなく圃とある)説明に「逸見文九郎編述高岡開始以来ノ重要ナル事項ヲ簡明ニ記シタルモノ跋ニ庚午二月廿一日逸見生識トアリ」と。「庚午」(かのえうま)は、明治3(この前は、文化7年、この次は昭和5年)
cf:
・『高岡市史』中巻に(P1125〜1160)、逸見文九郎(通称は高原屋文九郎)は文政8(1825)年8月1日生まれで、代々蔵宿を営み、町役人を務めた逸見家の第14世とある。明治8(1875)年8月31日没、享年52歳。従ってその生没年より、『晩香圃雑記』の執筆年は明治3年と判断される。なお「晩香圃」とは文九郎が命名した小庭のこととある。(P1159)
・『高岡市史』中巻p961 公立高岡学園 明治元年12月
12/17に町会所にて、句読師の採用試験を行う。合格者の一人が「孟子 高原屋文九郎」
cf:講師の一人が「津島玄碩」
・同p126 幕末の蔵宿の一つ……高原屋文九郎
 
・(良歓、没年=1764)
 良歓下関村の領地借用年月日と面積…享保19年11月7日 102歩、延享3年2月 80歩[0515-18.4]
 
・高桑致芳「高岡市沿革志」(『富山高岡沿革志』中島亀太郎 M28 T244-19)p30には
「延享二年 百五十一年前
 九月四日坂下町極楽寺 浄土宗ニシテ安養山ト称ス ノ徒弟良歓ナル者
 定塚町ニ大佛ヲ建立ス金色ニシテ三丈二尺ノ座像ナリ」[0515-41.30]
(「高岡史料」下巻p1169の出典名「高岡沿革志」は上記の「高岡市沿革志」と同一か? 「高岡史料」下巻の引用書一覧p5には「高岡沿革誌」とある(「誌」に注意!))
 
・[0515-44]桑山仁作(くわやまじんさく)「高岡開闢由来記・高岡町由緒聞書」(高岡文化会 S9)(原本は高岡図書館蔵という記載あり)
「高岡大仏の事
高岡大仏 定塚町建設。延享二年新築也。文政四年六月火災、(後略)」
右の文献でも、同内容だった。→[0515-44a]桑山仁作(自序に扶桑堂樵夫と)「高岡開闢由来記・高岡町由緒聞書 附高岡町旧家覚 写本」(T244-18A)明治30年、1冊、24cm、和毛。(樵は「きこり」「しょう」、「樵夫」で「しょうふ」と読み、きこりのこと。)
 
・9/4、良歓、大仏堂建立許可願いを高岡町奉行に提出。(出:5=高岡史料 下巻)[0515-18.4]
 
・坂口勇一『高岡大仏と大仏寺』に「この銅器の大仏が出来る前は1代目も、2代目も90度向きが違っていたのである。」[0515-22.20]
 
○ 1746(延享3年)
・1/27、「大仏屋敷下ろし証文」
 下関村又右衛門(印)など三人→坂下町組合頭中条屋八右衛門など二人(切紙 1 三-80)[0515-19.23]
 
・金色木像三丈二尺(9.7メートル)の座像(本来は「坐像」)建立[623-11.573]
・延享二年に大仏の建立を発願した。弟子の良勧(ママ)を勧進職(しき)として喜捨を募り、翌年(延享3年)には、金色木像で像高三丈二尺(約9.7m)の大仏が完成する。[623-01.259]
 
・2/、「大仏屋敷請状之事」(飯田弘家文書)に以下あり
 坂下町極楽寺弟子大仏願主良歓(花押)など三人→下関村肝煎又右衛門など三人(一紙 1 一-17)
 
○ 1748(延享5、寛延1 7月が改元の月)
・9/4[0515-09.1169]=高岡史料 下巻(出典名は「高岡沿革志」とあり)
※ ただし、高桑致芳「高岡市沿革志」
(『富山高岡沿革志』中島亀太郎 M28 T244-19)p30の記載とは異なる
 cf:延享二年を参照
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「延享五年九月四日 (延享5年=1748)
坂下町極楽寺 浄土宗ニシテ安養山ト号ス ノ徒弟良歓ナル者
定塚町ニ大佛ヲ建立ス
金色ニシテ三丈二尺ノ座像ナリ
 
右の大佛は文政四年の大火災に罹り
天保十二年同寺の謙勝之れを再興復旧せしが (1841)
明治三十三年六月の罹災後 (1900)
定塚町松木宗左衛門等之れが再建に尽力中なり」
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