三代目高岡大仏誕生史
現在、鳳徳山大仏寺でその姿を見ることができるのが、銅造阿弥陀如来坐像の高岡大仏です。
明治33年(1900)の高岡大火で焼失した二代目の木造大仏を再建する途上で — それは明治40年までに決められたことですが — あえて銅造での再建に方針を変更し、二代目焼亡から昭和8年の竣工まで33年を要した難行の末の産物でした。
さて、残された資料は、初代そして二代目の大仏に比べるとかなり豊富であると言えます。しかし、それらを紐解いてみて意外に思ったのは、今一般に流布している情報と必ずしも一致しない点が散見されることです。
松木宗左衛門の発願について
松木宗左衛門(大仏寺蔵)
重箱の隅をつっつくようですが、一例を挙げてみましょう。
高岡市史編纂委員会編『高岡市史』中巻(青林書院新社 昭和38年)[0515-11.936]に次の記述があります。
(二代目大仏は)「明治三十三年(一九〇〇)の大火で、再び希有に帰した。信心家で知られた定塚町松木宗左衛門は今度は再び焼けることのない鋳銅仏にしたいと発願した」(同書p936)
気になったのは、いきなり「松木宗左衛門は今度は再び焼けることのない鋳銅仏にしたいと発願した」とあることです。
別項で詳しく取り上げる予定ですが、明治34年(1901)から明治40年近くまで、松木宗左衛門らは木造での再建を願望していました。
それが証拠に、大仏寺所蔵資料の中には、「木像再建」のための寄付金集めを目的に当時の県知事と許可申請のやり取りがあったことを示す記録が残されています。
また私たちはその頃の新聞記事の中に、銅造への方針転換の発意が県知事(川上親晴)によるものだとする記事を見つけています。松木宗左衛門も彼の「卓説に感奮して大仏は銅像と為すに決心」し、大いに同調したと付け加えられていました。
しかし、木造での再建費用がおよそ8500円、それもなかなか捻出できずにいる中で、その4倍に近い33000円という銅造再建費を見込まなければなりません。松木宗左衛門の発願は、長い苦悩の始まりでもありました。
以上のように、『高岡市史』中巻で語られている銅造再建の背後には、もっと豊かで複雑な歴史の流れが隠されている、そのように思うのです。
探求対象となるテーマ
本稿「三代目高岡大仏」では、三代目の大仏誕生記として次のようなテーマで事実の掘り起こしの成果をまとめていきたいと思っています。
「救出された御面像、寄進された御面像」
「稀代な大仏再建者 松木宗左衛門」
「木像再建の総予算8550円」
「幻の三代目木造大仏」
「御面像の鋳造に向かって」
「『高岡大仏鋳造工料請負契約書』と現物寄進」
「高岡大仏と高岡市生産共進会 〜 御面像鋳造における松木たちの戦略 〜」