プロローグ(2分上映)
「高岡大仏 歴史編 〜 大仏三代260年の軌跡 〜」(30分)
約2分間のプロローグを抜き出しました。
(QuickTime Movie / WindowsMediaVideo)
作品は、高岡市立中央図書館や富山県映像センター(とやま学遊ネット)でDVDの貸し出しをしています。
また上映等については伊藤(
ito_takaoka@mac.com
)までお問い合わせ下さい。
修理が終わった大仏さん(1分32秒 上映)
夜間に撮影した完成シーンと修理前後の姿
映像作品『高岡大仏 歴史編』は、修理工事(平成19年(2007)7月〜12月)の前に作品化され、コメントも、「……次の世代に伝えるための修理が行われる」で締めくくられている。そのため、このビデオを見た人に、現在の大仏さんの姿を映像のままと誤解される恐れがある。そこで、修理終了の事実とともに、綺麗に生まれ変わった大仏さんの姿を簡潔に伝える必要が生じ作成化したのが1分半の本作である。
YouTubeへの登録映像
木造初代大仏(文政4年=1821に焼失)
右手Aから左手B(現在地)へ引っ越し?飯田家文書より(飯田千鶴子氏所蔵)
初代の大仏は引っ越している?
高岡市立博物館から教示された2枚の絵図によって、大仏が左図Aの位置からBへ引っ越しをしている可能性について知ることができました。そうすると、飯田家文書の記述(延享3年)に「若又大仏堂何方へ引越候共石砂等引取御田地為明渡可申候」とありますから、ちゃんと田んぼに戻したとは思うのですが……、さて事実はどうだったのでしょうか。
大仏堂の建立と大仏願主良歓
下関村の肝煎だった飯田家に残る延享3年の文書(左図)。
「坂下町極楽寺弟子」で「大仏願主」の良歓 他が、下関村の土地を大仏堂建立を目的に借り受ける約束をしました。従って、この時は、大仏堂の建設は未着手だったのでしょう。一般に、初代大仏は延享2年が建立年とされています(略年表を参照)。果たして、すでに大仏は完成し、しかし大仏を安置する大仏堂は未完成だったと考えるべきでしょうか? また大仏願主良歓とはいかなる人物なのでしょう。
木造二代目大仏(明治33年=1900に焼失)
高岡市立博物館蔵「高岡繁昌双六」(一部)射水市八幡町光山寺の新湊大仏
『應響雑記』と 新湊大仏
作品中で案内役を務めた橋本貢三子が、……紀行文に何か載っていないだろうか、と探しはじめて出てきた史料の一つが、近世氷見町に関する一級の歴史資料とされる『應響雑記』でした。
そこに記された二代目大仏の姿が新湊大仏によく似ている点に注目してみました。
台座内(中央殿)の木造面像木造面像内には墨書が記されていた
台座内の木造面像と二代目大仏
大仏寺に「明治三十三年六月二十七日当地大火之際佛体ノ御面像及什具ノ一部取出ノミニシテ余ハ悉皆烏有ニ帰シ」と書かれた記録があります。
左の木造の面像が明治33年に焼失した二代目大仏の頭部とされる所以の一つです。内部の画像は(高岡大仏に詳しい冨田保夫氏がすでに指摘済み)木造面像内の墨書の様子を示しています。その中に「明治三十四年四月 彫刻師 本保」とありました。
果たして、この面像は二代目の頭部? それとも……。
大仏さんに身近な人たち
高岡保育園の園児が描いた大仏さん朝鐘を撞く 木谷市左衛門さん
このシーンでは、大仏さんと日頃関わりのある方々を紹介しています。毎朝鐘を撞く人、大仏のパンフレットを作った人……幼い頃に見た大仏さんの記憶も語ってもらいました。
近い将来「大仏を語る人びと」編を製作する考えです。
朝6時半から大仏寺で般若心経を唱えるあけぼの会永年、高岡大仏奉賛会副会長として活躍された中川 清さん高岡大仏の歴史に詳しい 冨田保夫さん
古写真に写った3人の子どもたち!
昭和8年、銅像大仏完成
中川敦子さん木下清之さん熊木俊彦さん
銅造三代目高岡大仏(昭和8年落慶)
大仏寺所蔵資料より松木宗左衛門
市民からの現物寄進と松木宗左衛門の戦略
・左図矢印Aが示す文章に「地銅貳万貫 ○しんちう ○あかがね ○かがみ ○きせる ○かんざし等 其他つぶし金物一切取りまとめ御寄附被成下度候」とあります。鋳造に使用する「金物」の寄進を呼びかけているのです。私たちは、こうした現物の寄進が実行されたことを示す資料を見つけました。明治44年のお顔(尊顔)の鋳造においてです。
・大仏再建の功労者の一人 松木宗左衛門は、実は有能なプロデューサではなかったか。映像は彼の隠れた一面に迫ります。松木の役割は、市民の関心を集め、さらに広域に渡る人々の理解を得て再建のための寄付金増を図ること。その一環として尊顔の鋳造日を、高岡における大イベント=高岡市生産共進会の表彰式当日に設定し、市民へは現物による寄進を求めたものと思われます。
・そうして鋳造されたのが現存銅造大仏のご尊顔であり、その成果が新聞による評価の形で現れたと考えられます。
以下記事の一部です。(明治44年4月17日『高岡新報』)
◎ 多数の外来者を誘引するの動力となるのみならず
◎ 更に銅器の主産地にして此の如き宏壮崇厳なる仏像を鋳出さるゝなりと技術の紹介となり
◎ 一層銅器と高岡市の印象を深からしむるに効果あるべきを信ず