初代大仏の所在地について
初代大仏は道一つ隔てた位置で移転をしていたようです。
(ビデオ「高岡大仏 歴史編」より) 2枚の絵図は高岡市立博物館所蔵。(SQ5 editOn02all 000619;27.jpg)初代大仏が建立された場所はどこだったのでしょうか。『晩香圃雑記』(延享2年)では「下関村百姓地」に、また飯田家文書『大仏屋敷請状之事』(延享3年)でも同様に「貴村(下関村)御田地之内」に「大仏屋敷」を建てるとあるばかりで、具体的な所在地を示すものではありません。
また、その場所を定塚町とするおそらく最初の記述は、明治28年(1895)刊『高岡市沿革志』の「良歓ナル者定塚町ニ大仏ヲ建立ス」[0515-41.30]だと思われますが、定塚町とあっても現在の大仏寺の所在地に一致すると考えるのは早計でしょう。
幸い映像取材の過程でお世話になった高岡市立博物館の仁ヶ竹亮介氏から、大仏の位置に関する複数の絵図について教示を得たのでその一部をご紹介します。(ただ解釈等で誤りがあるかと思います。従ってあくまで文責は伊藤 博にあります。)
なお、下記の内容については、映像作品「高岡大仏 歴史編」でも取り上げています。
2点の絵図
その絵図とは、延享2年(1745)〜寛延3年(1750)頃の状況を示すと考えられる『高岡町図』、もう1点はそれ以後の成立と見られ、江戸時代中期(宝暦期(1751-1764)及びその前後)と推定される『高岡中古之図』(『高岡史料』付録絵図)です。
左図:『高岡中古之図』(『高岡史料』付録絵図)(0515_060617-016.jpg)、右図:『高岡町図』(0515_060617-008.jpg)。ともに高岡市立博物館所蔵。なお、前記のビデオ画像に合わせるため絵図の画像を180度回転させています。矢印で示した「大佛」の位置が、「坂下町」へつながる道を隔てて、右図の位置から左図の位置に変化しているのが分かるでしょう。
仁ヶ竹氏のご指摘の通り、上の2つの絵図を見比べてみると面白いことに気づきます。
左の『高岡中古之図』に記された「大佛」の位置は、現在の大仏寺の所在地と一致するように見えます。しかし、それより初代大仏の建立時期に近い『高岡町図』(大仏の建立から5年以内に描かれたものと推定)に記された「大佛」の方は、現在の大仏寺と道一つ隔てた西側に位置しているように見えます。
2枚の絵図が当時の状況を反映した信頼に足るものだとするなら、初代大仏は宝暦期以前に位置を変えていることになります。ですがそのことを確実に裏付ける史料は見つかっていません。
余談ですが、史料『大仏屋敷請状之事』(延享3年)の「若又大仏堂何方へ引越候共石砂等引取御田地為明渡可申候」という記述は、当時の人たちが、そのような引っ越しが実際に起こりうることを想定して安全策を打っていることを示しているようで面白いです。