2点の紀行文 『應響雑記』『五ヶ山大牧入湯道之記』
紀行文は時に驚くほど新鮮な情報を私たちにもたらしてくれます。建立当時の二代目の大仏を目の当たりにした二人の人物がその役割を担ってくれました。
二代目大仏が彫刻された翌年、天保13年(1842)5月5日と、それから3ヶ月半後の8月20日に異なる人物が記録したものです。早速二代目大仏について記された部分を抜き出しましょう。
『應響雑記』『五ヶ山大牧入湯道之記』
○ 天保13年(1842)5月5日『應響雑記』
五日 雨降る……追々天晴むら曇り九ツ過高岡江罷越此頃成就之大仏尊拝礼仕候御丈ケ壱丈六尺蓮花臺八尺其外ニ御舟光雲小仏千躰皆弥陀尊中仏十二躰大仏尊ハ釈迦尊仏也いまた白木地ニ而御堂ハ土蔵造り也
○ 天保13年(1842)8月20日『五ヶ山大牧入湯道之記』
廿日朝出立……高岡町 小杉ヨリ二リ廿五丁 東入口 定塚町ニ木像ノ大仏建立丈六ノ座像化仏多シ堂土蔵造リ三間半也
『五ヶ山大牧入湯道之記』金沢市立玉川図書館近世史料館所蔵
(0515_060707-001a.jpg)『應響雑記』の「此頃成就之大仏尊」、『五ヶ山大牧入湯道之記』の「定塚町ニ木像ノ大仏建立」という文言から、大仏が完成してまだ日が浅い頃の記録と想像できます。
天保12年(1841)に彫刻がなされたとして、その年の大仏完成を示唆する『大仏殿由来記』の信憑性を高める材料となります。
ところが、『應響雑記』ではそれに続いて「いまた白木地ニ而」とあります。これは、天保13年5月の時点ではまだ彩色が行われていなかったことを明示しています。『高岡開闢由来記』(明治30年)の天保13年説を有利に導くことになるのかもしれません。以下が『高岡開闢由来記』の内容です。
『高岡開闢由来記』明治30年(1897)より
天保十三年再建成就セリ仏体金色舟御光背負内ニ十三仏ト千体仏具備セラルルイヅレモ金色塗彫工仏師山本与三平氏ナリ
天保13年5月に白木だった大仏に、同年のうちに彩色を済ませたとすれば、「天保十三年再建成就セリ仏体金色」の姿になったとも考えられます。いずれにしても『應響雑記』の記述内容はかなり事実に即したものと評価されることから、天保13年5月の時点では、二代目大仏がまだ白木だったことは間違いないように思えます。
最後に、簡単ですが二代目大仏に関する両史料の位置づけをしておきたいと思います。
『應響雑記』が二代目大仏の大きさや尊容・尊称を明らかにし、これを収めた施設が土蔵であること、そしてこの丈六の仏像を「大仏(尊)」と規定し明記した最も古い記録であり、『五ヶ山大牧入湯道之記』もまた、同大仏が木像であり、土蔵の大きさが「三間半」であること等を記した建立当初の状況を伝える貴重な記録であることを付け加えておきたいと思います。(それぞれの内容については別のコーナーで扱います)
(補足 「大仏」の呼称については、初代高岡の大仏においても、延享3年(1746)の飯田家文書の中で「大仏屋敷」という表記がすでになされていることを付記しておきます)