3. 札差株仲間(A. 札差とは何ぞや)

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3. 札差株仲間(A. 札差とは何ぞや)

札差業務及関連所地図(トレース)札差業務及関連所地図(トレース)(クリックで拡大) 

 
幕府公認の仲間組織
左図は細谷多七「札差業務及関連所地図」(幸田成友『日本経済史研究』所収)をトレースし、慶応2年(1866)時点における札差の所在地を同図に記載された通し番号で示したものです。
これにより74名の札差(株)の存在を知ることができます。
 
札差株仲間というのは、このように札差株を持つ札差たちの組織のことで、享保9年(1724)109人の札差が江戸町奉行所へ願い出て認められた幕府公認の仲間組織ですが、両者にはそれぞれ次のような思惑があったようです。
 
幕府側の目的とするところは、全国的な商品経済が進展する中で、都市の問屋商人を株仲間に編成して流通統制や物価の操作に利用し、ひいては経済成長の成果を財政に吸収しようという、八代将軍徳川吉宗の享保改革の一環だったと考えられています。
一方、札差側の目的とするところは、旗本・御家人金融の独占に尽きると言えそうです。

すなわち、
 
拙者共儀、古来より御旗本様方御用米金相達、札差宿相勤来候処、近年不埒ニ相成、去年中より所々ニ而、質屋・槇屋・酒屋・浪人衆、猥ニ札差宿仕候付御旗本様方御用金相滞、相対之筋一円相済不申候、札差宿前ゝ之者共百九人之者、人数御定被為成下、外々より猥ニ不仕様奉願上候……
 



というように、近年質屋や槇(薪)屋をはじめ酒屋・浪人衆までが札差業に手を染め、その結果旗本方への用立にも支障が生じ紛争の種になるばかりだから、古くから携わっている札差109人にだけお任せいただきたい、というものです(北原 進『江戸の札差』「宝暦―天明期の江戸商業と札差」参照)。

株仲間による独占
このように、限られた人数の札差でその権益を独占し続けるために、新たな加入者の受け入れをできるだけ退けようとしたのも当然と言えるでしょう。
そこで仲間内では次のような規定が設けられていました。それは、右のような厳しい内容でした(脇田 修『札差業と住友』参照)。
 

 
札差株の他所者への譲渡を禁止する。
 
たとえ仲間内の二・三男や手代、親類であっても、身元を確かめ全員の承認がなければ加入を認めない。
 
記録映画『札差 御蔵前泉屋』でも採り上げましたが、銅山業を本業とする泉屋住友の札差株取得から営業までの過程に、株仲間の強固なまでの閉鎖性を見ることができます。それだけ独占によるうま味が大きかったということでしょう。
LinkIcon札差株取得の経緯(泉屋甚左衛門店の場合)を参照

札差起立人の行く末
それでも、廃業に至る札差も決して少なくはありませんでした。
下表に示す通り、株仲間成立時の札差109名(起立人)のうち70名以上が、その後何らかの理由で株を売却して廃業、または幕府に株を取り上げられています。
後者を「上り株」と言います。(北原 進『江戸の札差』参照)

 
 

屋号名前に続く( )内の年号が株売却(廃業)あるいは上り株となった年です。 ただし出典の『江戸の札差』には、記述のないものは「少なくとも文政~天保ごろまで家名を保っていた」とありました。

吉田屋喜兵衛(~享保21年)
近江屋伝兵衛(~明和7年)
松本屋庄左衛門(~享保21年)
大和屋与兵衛(~幕末)
和泉屋喜平次(~幕末)
上総屋庄助(~幕末)
太田屋市左衛門(~享保19年)
町屋伊左衛門(~享和3年)
江原屋佐兵衛(~寛政5年)
利倉屋善兵衛(~享保10年)
下野屋惣次郎(~寛保3年)
大和屋吉右衛門(~安永6年)
紀伊国屋権三郎(~元文3年)
相模屋庄兵衛(~幕末)
伊勢屋太郎左衛門(~享保16年)
伊勢屋清左衛門(~幕末)
水戸屋吉兵衛(~明和8年)
溜屋庄助(~文化7年)
下野屋十右衛門(~幕末)
大口屋長兵衛
相模屋久兵衛(~寛政9年)
伊勢屋長兵衛(~明和2年)
上総屋忠兵衛
松葉屋与右衛門(~享保12年)
尾張屋八右衛門(~安永7年)
和泉屋長十郎(~宝暦11年)
上総屋清八(~享保17年)
東金屋甚兵衛(~安永8年)
森田屋市郎兵衛
上総屋五兵衛(~宝暦7年)
庄内屋久兵衛(~享保14年)
坂倉屋長兵衛
信濃屋市左衛門(~元文2年)
伊勢屋平左衛門(~幕末)
伊勢屋喜太郎(~幕末)
紀伊国屋喜兵衛(~元文2年)
堺屋伊兵衛(~天明8年)
坂倉屋治兵衛(~幕末)
三河屋清兵衛(~明和5年)
坂倉屋市郎兵衛
長嶋屋八郎兵衛(~寛延2年)
紀伊国屋三郎兵衛(~元文2年)
坂倉屋七郎兵衛(~幕末)
伊勢屋市三郎(~文化6年)
福田屋七郎左衛門(~延享2年)
利倉屋庄左衛門
利倉屋七兵衛(~寛政元年)
吉田屋七兵衛(~寛保3年)
増田屋四郎左衛門(~宝暦12年)
武蔵屋岩太郎(~享保20年)
坂倉屋助次郎(~幕末)
坂倉屋七兵衛(~寛保3年)
東屋権右衛門(~元文6年以前)
木綿屋吉兵衛(~享保16年)
伊勢屋嘉兵衛(~幕末)

伊勢屋半兵衛(~宝暦7年)
大坂屋弥惣兵衛(~享保12年)
木屋庄三郎(~寛保3年)
藤田屋与八
伊勢屋四郎兵衛(~幕末)
伊勢屋久兵衛(~享保20年)
堺屋長右衛門(~享保12年)
十一屋善八(~幕末)
田村屋長左衛門(~寛政3年)
下野屋喜平次(~明和7年)
下野屋孫右衛門(~寛保3年)
笠倉屋平八
笠倉屋平十郎(~寛政8年)
笠倉屋五郎兵衛(~宝暦9年)
豊嶋屋伊兵衛(~元文5年以前)
堺屋金兵衛(~寛政3年)
山田屋金右衛門(~幕末)
小川屋勘左衛門(~寛保3年)
山口屋甚兵衛
武蔵屋茂平次(~享保13年)
伊勢屋平右衛門
日野屋吉左衛門(~享保16年)
上総屋五郎右衛門(~享保12年)
大口屋治左衛門(~寛保2年)
大口屋八兵衛(~文政4年)
大口屋次郎右衛門(~文政6年)
大口屋治兵衛(~明和4年)
相模屋佐平次(~安永7年)
和泉屋源兵衛(~幕末)
和泉屋才兵衛(~幕末)
大口屋清七(~宝暦3年)
木村屋太兵衛(~寛政9年)
岡田屋市太郎(~元文5年)
備前屋長八(~寛保元年)
小嶋屋酉之助
伊勢屋清右衛門(~安永4年)
中村屋太右衛門(~享保19年)
若松屋利右衛門(~寛保3年)
大内屋市兵衛(~享和3年)
近江屋清兵衛
平野屋伝兵衛(~享保14年)
伊勢屋四郎左衛門(~幕末)
野中屋恵左衛門(~享保12年)
井筒屋八郎右衛門(~幕末)
小玉屋権左衛門(~幕末)
乗田屋藤左衛門(~享保21年)
鹿嶋屋善四郎(~明和4年)
伊勢屋藤十郎(~文化12年)
田村屋喜左衛門(~享保16年)
伊勢屋六兵衛(~享保17年)
乗田屋藤兵衛(~享保11年)
伊勢屋喜兵衛(~文政4年)
大口屋弥平次
大口屋源七

  札差株取得の経緯(泉屋甚左衛門店の場合)
 

札差株取得の経緯(泉屋甚左衛門店の場合) 

銅山業を本業とし大坂に本家を置く泉屋(住友)が江戸の札差業へ進出するにあたり、最初の難関となったのは札差株の取得でした。

松葉屋與右衛門を起立人とする札差株が享保12年に柳屋伝蔵に譲られ、その後泉屋は伊賀屋善兵衛を名義人としてこの株の取得を図ります。つまり、善兵衛は元々蔵前の米屋で、札差としての資格を満たしていなかったため、彼を起立の札差である森田屋市郎兵衛の弟ということにして株の取得を果たしたのでした。
それから4年後、屋号を泉屋とすることに成功します。

さらに5年後の宝暦5年善兵衛の死去を機に、手代の泉屋茂右衛門を、今度は善兵衛の弟ということにして跡を引き継がせます。
この時甚左衛門と改名し、札差 泉屋甚左衛門店が誕生したのです。
ただし茂右衛門すなわち丹羽家の系図に善兵衛なる人物は見あたりません。