2. 札旦那としての旗本・御家人(A. 札差とは何ぞや)

探究クラブ

探究し映像化を考えるクラブです

| HOME | 札差 | 札旦那としての旗本・御家人 |

2. 札旦那としての旗本・御家人(A. 札差とは何ぞや)

旗本と御家人/地方取と蔵米取の図旗本と御家人/地方取と蔵米取 

 
旗本・御家人
札差が多額の金を貸し付け、札旦那と呼んで取り引きしていた旗本と御家人は、ともに1万石未満の家臣(直参)で、今日の公務員のような立場にある人たちでした。仕事の内容も、非役の者は別として、行政・司法・財務などに従事する役方、城の警備や将軍の護衛にあたる番方として働いていました。
札差については、先に「蔵米取の代理人として、浅草蔵前の御蔵から年3回に分けて支給される俸禄米を受け取り、これを米問屋に売り払いその手数料を得る」と定義しましたが、ここではその蔵米取について見ていくことにします。

ところで、旗本と御家人を区別するのはなかなか難しいようで、一般には、将軍に御目見がかなう家格か否か(つまり拝謁が可能かどうか)が一つの目安になるようです。そして、前者の旗本がおよそ5,200名、後者の御家人が17,000名で、合わせて22,000名ほどの人数になるとされています。

地方取
1万石以上の大名は、それぞれに領地(知行所)を持ちその領民(農民)が耕し収穫した米を年貢米として徴収し、これを換金して財政に当てるのが普通です。
これを地方取といい、上の図に示した通り旗本の約44%、御家人の約1%も同様の地方取でした。
 

蔵米取
一方、旗本の過半数と御家人の大半は、蔵米取(ないし扶持米取)といって、幕府が直接支配する直轄地(天領)で徴収した米の中から俸禄が与えられる仕組みになっていました。
そして年に3回、春(4分の1)夏(4分の1)冬(2分の1)に、御蔵から米を受け取り現金化していました。

ちなみに、旗本に対する蔵米はおよそ62万俵(約21.7万石)、御家人に対する扶持米は161万俵(約56.3万石)といわれていますが、実はそれら全てが米で支給されたわけではありませんでした。

御張紙(値段)御張紙(値段)(幸田成友「日本経済史研究」p128より) (クリックで拡大) 

御張紙(値段)
これは蔵米の支給日近くに江戸城内の中之口(別に「城の出入口数ケ所」という指摘もある)に張り出された「御張紙値段」の一例です。
 
慶応2年(1866)の春借米において、役向きごとの支給期間とともに、米と金の支給割合とその換算率についてその年の正月に公表したもので、禄高の3分の1を米で、残り3分の2を金で渡すこととし、その際、米35石(100俵)につき80両の割合で換算するというものです。
 
例えば(下図も参照下さい)600俵取の旗本の場合、春借米としては4分の1の150俵が対象になるわけですが、そのうちの3分の2の100俵、すなわち80両が現金で、残りの50俵が米で支払われるというわけです。
 
この御張紙値段については「米価の変動により幕臣たちに不時の減給が起らぬ様に幕府が武家人の生計を考慮に入れて定めたもので、時には一般米価と著しくかけ離れていることもあった」(鈴木直二「増補 江戸時代における米取引の研究」より)という指摘もあります。

蔵米支給のプロセスと支給基準
以上のことを整理すると下図のようになると思います。
 

 
これは、年貢米が御蔵を経由して江戸の消費者に渡るまでの過程と、御張紙値段による支給基準を中心に先の事例(600俵取の旗本)の数字を示したものです。
 
なお作図にあたり下記の文献を参照しました。
 土肥鑑高『江戸の米屋』『米と江戸時代』
 幸田成友『日本経済史研究』その他

蔵米支給の方法と支給基準の図蔵米支給の方法と支給基準 

米の受け取りと「札差」の由来
米受け取りの当日、旗本・御家人たちは、米と引き換えのために持参した手形を割竹に挟み、御蔵役所の入口に用意された大きな藁束の棒にそれを差して(差し札)支給の順番を待つことになります。
 
「札差」の名の由来もここにあると言われています。そして、入手した米から飯米等の必要分を除き、米問屋に売り渡して現金を手に入れたのです。
しかし、それは大層煩わしい作業だったようです。そこで彼らに代わって蔵出しから売り払いまでの面倒な手続き一切を代行したのが札差でした。
 
その札差が「蔵米を担保として札旦那(旗本・御家人)に金銀を融通し相当の利息を取」
LinkIconこちらを参照)ることになります。
 

大田南畝の借金と札差 泉屋茂右衛門
泉屋甚左衛門という札差の店で長年支配人を勤め、宝暦12年(1762)に独立した泉屋茂右衛門を札差とする幕臣・大田南畝が生まれたのは寛延2年(1749)のことでした。
 
当時、父吉左衛門は、将軍外出時の警護を行う番方の御徒衆の一人で、家禄は70俵5人扶持(御目見以下)にすぎませんでした。
母と姉2人を含む5人家族の生活は相当に苦しかったようで、「貧乏だけは誰にも負けない。先年父の跡をついだ時に先祖から伝わる借金があって、数年先の俸禄まで金貸に担保となっていることを知った」(浜田義一郎『大田南畝』より)というように、徒士の職を父から受け継いだ頃の貧しさを南畝は書き残しています。
 
勿論「金貸」の筆頭が札差だったことは言うまでもありません。何に付けお金のかかる江戸での都会生活にあって、札差からの融通が、窮乏する武士たちの頼みの綱であり、一方、取りはぐれのない安定した俸禄(蔵米)という担保を得て、札差(金融)業は隆盛を極めていくことになります。