D 千保川から大海原へ

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D 千保川から大海原へ

高岡を南北に縦断する川があります。千保川(せんぼがわ)です。
高岡開町400年記念出版物として平成21年(2009年)に『千保川の記憶』という本が出されました。市民団体「千保川を語る会」が、わが町のおらが川の歴史を調べ、古写真や語り手を探しまとめたものです。そこには、これまでなかなか知る術のなかった千保川にまつわる物語が満載です。
与えられた、伏木港から環日本海へ、というテーマとも絡め、そこ(海)に至るかつて運輸の花型だった千保川に焦点を当ててみました。

千保川上流

SQ On_edit04all 000755;08.jpg実は轟音(ごうおん)に怯えながら撮影したカットです。豊かな水量というより恐ろしいほどの流量だとつくづく感じました。良い実りのためにはこのくらいのPowerが必要なんだなと、いたく感心したものです。
前記「千保川の記憶」p459に掲載の「千保川及び関連する水の流れ(千保川流域略図)」にも示されている、舟戸口用水あたりで撮影したように記憶します。
(同書p12 新井雅夫「水の流れに沿って〜千保川上流を歩こう」を参照)

ナレーションは下記のようにしました。
N「遠くに見える山並みは砺波平野を潤す豊かな水源地帯。
その清流は川となり 人や物資の移動を助けてきました。」

恵比須塔

SQ On_edit04all 000814;02.jpgN「ところで、
千保川に行き交う船をずっと見続けてきたものがあります。
かつての船着き場に立つ恵比須塔です。」
N「近くでは魚市場が開かれ、
荷揚げされた魚が高岡の台所を支えてきました。」

さて、この恵比須塔(えびすとう)って実際のところ何なのでしょう。
前記の書p238、天野修一「恵比須塔と波止場」という文章に以下の記載がありました。
(史料の要約のようです)
「二番新町地内新幸橋詰の荷揚場は市内唯一の貨物集散地であるが、夜間の荷物の揚げ下ろしに支障があるので、新たに『百燭街燈』高さ33尺(約10m)本径4尺(約1.2m)末径1尺2寸(36㎝)の鉄筋コンクリートの塔を新設した」というものです。

例えば、「灯台「恵比須塔」を調査 高岡・千保川を語る会」を参照下さい。


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先の文章で気になるのが「百燭」です。
「燭(しょく)」は「ともしび」とも読むのだそうですが、http://ja.wikipedia.org/wiki/燭 での説明では、
「燭(しょく、記号:c.)とは、かつて使用されていた光度の単位である。燭光(しょっこう)、キャンドル(candle)とも言う。様々な定義があるが、いずれも「蝋燭1本分の光度」を由来とするものであり、そこから、英語では蝋燭を意味する"candle"が単位の名前となり、日本語ではそれを訳して燭、また「蝋燭の光」という意味で燭光となった。」と簡明な説明がありました。

100本文の蝋燭(ロウソク)の明かりということになるのでしょうが、果たして実際のところどの程度の明るさだったのでしょうか?(100Wの裸電球と比べると……??)

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なお、恵比須塔の裏手には魚市場があったそうです。高所作業車の籠の中からの撮影中に、何だ何だと立ち寄ってくれたご近所の旦那さんたちから、下界のアシスタントがいろいろ興味深い話を聞いているそうす。彼女がそのうちご披露してくれるものと思います。



大型のニシン釜

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N「すぐそこ、対岸の金屋町では、工場の目の前が船着場です。」
N「大型のニシン釜やさまざまな銅器が伏木へと旅立ちます。」
N「小矢部川へ合流してまもなく、家持に望郷の念を募らせた二上山が見えてきました。
海までもうすぐです。」

藤井能三と環日本海

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とりあえずナレーションコメントのみ掲載します。

N「ここは小矢部川の河口付近。
ところで、後の臨港工業地帯にもつながる"伏木港の近代化" を訴えた人物をご存じでしょうか。
藤井能三です。」

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N「藤井能三は、
伏木随一の財を成す廻船問屋に生まれました。」
N「海の間近に育った少年は、20代で明治維新の荒波を受け、
27歳の時、富山県内初の公立小学校を作り、
後には、高岡伏木間の鉄道の開通にも尽力しました。」



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N「そして明治8年、念願だった蒸気船による東京、大阪、北九州、さらに北海道を結ぶ全国連絡航路への道を開いたのです。」
N「今、彼の志は現代に引き継がれ、大型貨物船が陸上交通と一体となって環日本海の大海原へ向けて交易を広めています。」