江戸六地蔵について

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江戸六地蔵について

江戸六地蔵、現存する5ヶ寺の地蔵菩薩像。

上の画像は、地蔵坊正元が造立した現存する5ヶ寺の江戸六地蔵(「後の六地蔵」後述)です。番号は造立年順です。なお、第6番の永代寺は廃仏毀釈により取り壊されたとされています。(0806_081231-01.psd)

「始の六地蔵」と「後の六地蔵」


ホームページ(江戸六地蔵・東都六地蔵 - 天地じん)によると、
『江戸砂子』の記載に、願主・造立年を異にする「始の六地蔵」と「後の六地蔵」という2つの江戸六地蔵が存在するということです。「始の六地蔵」は「元禄4年(1691年)に、慈済菴空無上人が開眼供養したもの」であり、「後の六地蔵」は、「江戸深川の地蔵坊正元が、宝永3年(1706年)に発願し江戸市中から広く寄進者を得て、江戸の出入口6箇所に地蔵菩薩像を造立した」(http://ja.wikipedia.org/wiki/江戸六地蔵)とされる六地蔵でした。

六地蔵一般については以下引用します。
「地蔵は地獄をはじめとする六道(りくどう)で衆生(しゅじょう)を助けるとされる仏で、これを墓地の入口や村の境界にたてるようになった。京都や江戸でも各街道の入口に地蔵を配し、これを巡拝する風ができた。京都の六地蔵詣でが古いとされるが江戸にも二種の六地蔵があった。」[279-31.143]
この「二種の六地蔵」というのが、「始の六地蔵」と「後の六地蔵」を意味するわけです。

地蔵菩薩についてもWikipediaから引用しておきましょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/地蔵菩薩
「忉利天に在って釈迦仏の付属を受け、毎朝禅定に入りて衆生の機根(性格や教えを聞ける器)を感じ、釈迦の入滅後、56億7000万年後に弥勒菩薩が出現するまでの間、現世に仏が不在となってしまうため、その間、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)を輪廻する衆生を救う菩薩であるとされる。」とのことです。

参考:東都六地蔵 (元禄・始の六地蔵) 札所一覧

(以下、前出HP「江戸六地蔵・東都六地蔵 - 天地じん」より)
第一番 桂芳山 瑞泰寺 (東京都文京区向丘2-36-1)
第二番 一心山 正定院 専念寺 (東京都文京区千駄木1-22-22)
第三番 法輪山 浄光寺 (東京都荒川区西日暮里3-4-3)
第四番 影向山 心行寺 (現・東京都府中市紅葉丘2-32-14)
第五番 福聚院 (現・東京都台東区上野公園16-13・地蔵尊像現存せず)
第六番 正智院 (現・東京都台東区浅草2-31-3・地蔵尊像現存せず)

江戸六地蔵(後の六地蔵)について

造立に至る経緯

江戸六地蔵が造立された経緯については、滝 善成「空無・正元と江戸六地蔵」[0806-007.581]に掲載の「当国六地蔵造立之意趣」(宝永3年5月吉祥日に筆、『江戸六地蔵建立之略縁起』所収)の文章を挙げることにします。(下記の「予」は、六地蔵を造立した地蔵坊正元)

抑々予十二歳の比呂郷を出、十六歳にして剃髪受戒す。其後廿四歳の秋乃比より重病を請、廿五歳の春の末に至て、医術も叶難く死既に極れり。……父母是を悲、偏に地蔵菩薩に延命を祷奉る。自も親の歎骨髄に通、一心に地蔵菩薩に誓願すらく、我若菩薩の慈恩を蒙て、父母存生の内命を延る事を得ば、尽未来際に至るまで、衆生の為に菩薩の御利益を勧、多尊像を造立して衆生に帰依せしめ、共に安楽を得せしめんと誓、其夜不思議の霊(の俗字)験を得て重病速に本復す。其後諸国を廻無縁の衆生に多縁を結ばしむ。……帝都の六地蔵に同く、御当地の入口毎に一躰づつ金銅壱丈六尺の地蔵菩薩を六所に都合六躰造立して、天下安全・武運長久・御城下繁栄を祝願し、兼而ハ又諸国往来の一切衆生へ普く縁を結バしめんと誓。
  • 地蔵坊正元については、「何時・何処で生れ、誰について出家したのか、については何一つ明かされていない」(p581)とされています。
  • 前記引用文からすると、地蔵坊正元は24歳の時に大病を患い、病気平癒を地蔵菩薩に祈願する際に誓った菩薩像の造立を「帝都の六地蔵に同く」、つまり京都の例(京都六地蔵)に倣って、江戸市中6ヶ所に地蔵菩薩を一躰ずつ造立し、天下安全・武運長久・御城下繁栄を祝願したということのようです。

参考:京都六地蔵
http://sugamo.or.jp/prayer_detail02.html より)
平清盛が西光法師に命じて、京都の街道の入り口六ヶ所に六角堂を建て、一体ずつご尊像を分置されました。京都の六つの地蔵がある場所は、山科地蔵(東海道)、伏見六地蔵(奈良街道)、鳥羽地蔵(西国街道)、鞍馬口地蔵(鞍馬口街道)、桂地蔵(山陰街道)、常盤地蔵(周山街道)と、いずれも洛中と洛外を結ぶ街道の出入り口にあたるところに祀られています。

六地蔵の番号(順序)について

江戸六地蔵一覧(http://ja.wikipedia.org/wiki/江戸六地蔵 より)
第一番 品川寺 現存。宝永5年(1708年)、旧東海道沿いに造立。
  東京都品川区南品川三丁目5-17(LinkIconYahoo!地図
第二番 東禅寺 現存。宝永7年(1710年)、奥州街道沿いに造立。
  東京都台東区東浅草二丁目12-13(LinkIconYahoo!地図
第三番 太宗寺 現存。正徳2年(1712年)、甲州街道沿いに造立。
  東京都新宿区新宿二丁目9-2(LinkIconYahoo!地図
第四番 眞性寺 現存。正徳4年(1714年)、旧中仙道沿いに造立。
  東京都豊島区巣鴨三丁目21-21(LinkIconYahoo!地図
第五番 霊巌寺 現存。享保2年(1717年)、水戸街道沿いに造立。
  東京都江東区白河一丁目3-32(LinkIconYahoo!地図
第六番 永代寺 廃仏毀釈により取り壊されたため現存しない。享保5年(1720年)、千葉街道沿いに造立。

六地蔵には、上記の造立年の順番による番号とは別に、これとは異なる「巡拝」の順序を示す番号が存在するようです。『東都歳事記』には以下の順番が示されているそうです。

以下、[279-31.144]より
一番 品川品川寺(ほんせんじ)
二番 新宿太宗寺(たいそうじ)
三番 巣鴨眞性寺(しんしょうじ)
四番 浅草山谷東禅寺(とうぜんじ)
五番 深川霊巌寺(れいがんじ)
六番 深川永代寺(えいたいじ)

「寄進者」について

眞性寺と霊願寺に刻まれた同一名

先の引用に「像や蓮台には寄進者の名前が刻まれており、寄進者は合計すると72000名を越える」(http://ja.wikipedia.org/wiki/江戸六地蔵)という指摘がありました。
6体の地蔵尊に刻まれた「寄進者」の合計数(平均12000名)はどのように推計されたのでしょうか、あるいは関連する記録(資料)がどこにあるのか興味あるところです。

ちなみに手元の報告書(「〔調査報告〕霊巌寺銅造地蔵菩薩坐像の銘文(一)(二)」(江東区文化財研究紀要 1995(平成7)/1996(平成8))には、「この像は背面及び台座正面に銘が記されており……およそ1万人の結縁者の名等はこれまで紹介されていない」[0806-001.1]という記述があります。一方、霊願寺の地蔵菩薩坐像に刻まれた寄進者の合計数についての提示はなさそうです。

いずれにしても、人の名と思われる銘の中から、寄進者を特定し抽出するのは厳密にはかなり難しい作業のように思われます。

また今回の取材の中で私たちは、複数の同一の名前が眞性寺と霊願寺の両地蔵尊に刻まれていることを見出しました。(眞性寺は像そのものの実見により、霊願寺は先の報告書によりました。詳細はページ「眞性寺の銅造地蔵菩薩坐像」に掲載の予定です。)
正徳4年(1714年)造立の眞性寺、それから3年後の享保2年(1717年)造立の霊願寺、複数の同一名が寄進者の名だと仮定した場合、両者が造立される都度に寄進がなされたと考えるべきでしょうか。それとも例えば大口の寄進者は自動的に、寄進年以後造立の像にその名が刻まれるというような特典(?)でもあったのでしょうか。いろいろと興味をそそられます。